棟方志功 略歴

その生い立ち

明治36年9月5日青森市に生まれました。父棟方幸吉、母さだの三男です(九男六女の第六子)。家は代々鍛冶職を営んできました。明治43年長島尋常小学校に入学。6年生の時、学校裏に不時着した飛行機を見に走っていると田んぼの小川で転び、目の前に沢瀉(おもだか)という白い花を見つけます。その美しさに感激し「この美しさを表現できる人になりたい」と決意しました。小学校を卒業すると兄と一緒に家業の鍛冶屋の手伝いをしていましたが間もなくして廃業。17歳の時に裁判所の弁護士控所に給仕として雇われ、仕事の空き時間には足繁く合浦公園へ通い写生に明け暮れました。18歳の時、青森市在住の洋画家・小野忠明から雑誌『白樺』に掲載されたゴッホの「ひまわり」の原色版を見せられ、深い感銘をうけます。「わだばゴッホになる」と叫んだという話はここから有名になりました。また、絵の仲間達と会を作り、展覧会を開き、後に東奥日報社の編集長になった竹内俊吉(元青森県知事)から高い評価を受けたこともあって、絵描きになる決意を一層固くしました。

オモダカ2
沢瀉(おもだか)

上京して絵の勉強に励む

大正13年、21歳の時、志を立て上京します。「帝展(いまの日展)に入選しなければ帰りません」と心に決め、靴直しの注文取りや納豆売りなどをして苦労しながら絵の勉強を続けました。帝展の落選は続きましたが、上京して5年目の昭和3年10月、第9 回帝展に油絵《雑園》を出品し、見事入選することができました。

雑園習作
《雑園習作》 油絵 1928

板画の道を志す

《雑園》が入選する少し前、油絵の在り方に疑問をもち始めます。西洋からやってきた油絵では西洋人より上に出られないのではないか、日本から生まれ切れる仕事がしたいと考え、憧れのゴッホも高く評価した日本の木版画に気づきます。また、大正15年、第5回国画創作協会展に出品された川上澄生の版画《初夏(はつなつ)の風》を見て感激し、昭和2年には初めての木版画《中野眺鏡堂窓景》を制作します。葉書大の3色摺り風景版画でした。昭和3年、同郷の下沢木鉢郎に連れられて平塚運一を訪ね教えを受け、同年、第6回春陽展に出品した版画7点のうち3点が入選し自信を深めます。昭和7年には第7回国画会展に出品した版画4点のうち3点がボストン美術館、1点がパリのリュクサンブール美術館に買い上げられ版画の道に進む大きな転機となりました。そして昭和11年4月、第11回国画会展に版画《瓔珞譜(ようらくふ) 大和し美し版画巻》を出品し、この年開館する日本民藝館に買上げられ柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司氏ら民藝運動指導者の知遇を受けます。

大和し美し
《大和し美し》部分 板画 1936

世界のムナカタに

昭和27年4月、スイスのルガノで開かれた第2回国際版画展で銅版画家・駒井哲郎とともに日本人として初の優秀賞を受賞。同年5月にはフランスのサロン・ド・メェに板画《運命頌》などを招待出品します。昭和30年、第3回サンパウロ・ビエンナーレに板画《二菩薩釈迦十大弟子》などを出品し版画部門の最高賞を受賞。翌31年には第28回ヴェネツィア・ビエンナーレに板画《柳緑花紅頌》などを出品し、国際版画大賞を受賞。世界のムナカタとしての地歩を築きました。国際的に評価されたことにより、昭和34年ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招待で初めて渡米し、アメリカ各地の大学で講演をしたり、各地で個展を開催したりと精力的に活動します。夏休みにはヨーロッパを訪れ、念願だったゴッホの墓を訪ねました。棟方は生涯に都合4回アメリカに渡り、晩年にはインドへも旅行しました。

ゴッホ兄弟墓の柵
《オーベールのゴッホ兄弟墓の柵》
板画 1959

棟方と郷土

棟方の郷土を愛する心は人一倍強く、凧絵やねぶたは勿論のこと、風物に対しても大変心をよせていました。また青森市の合浦公園には、少年達を励ますために「清く高く美事に希望の大世界を進み抜く」という言葉を刻んだ記念の石碑が建てられています。青森市では、昭和44年2月17日、青森市名誉市民第1号の称号を贈りました。昭和45年11月には青森県人として初めて文化勲章を受章しました。版画家としての受賞も棟方ただ一人です。そして昭和50年9月13日、東京都の自宅で72年間の生涯を閉じました。お墓は、青森市にある三内霊園にゴッホの墓と同じ形につくられ、静眠*碑と名づけられています。

*碑「ひ」という漢字を棟方は石へんから玉へんに変えて命名しています。

広い範囲での活躍

棟方は板画のほかに、倭画、油絵、書など数多くの傑作を残しています。著書類も多く、『板極道』『わだばゴッホになる』『板散華』など数十冊にのぼります。本の装幀や包装紙のデザインも行い、現在でも棟方が手掛けた包装紙は各地で見られます。