棟方志功記念館

   

年譜

1903年〜1928年

明治36年(1903)
誕生

9月5日、青森市大字大町1番戸(現・青森市安方)に生まれる。

大正5年(1916)
13歳

3月、青森市立長島尋常小学校を卒業、家業の鍛冶屋を手伝う。

大正9年(1920)
17歳

弁護士・沢地甚蔵の紹介で青森地方裁判所の弁護士控所給仕となる。
10月25日、母さだ死去。享年41歳

大正10年(1921)
18歳

青森市在住の洋画家・小野忠明に雑誌『白樺』に掲載されたゴッホのひまわりの原色版を見せられて感銘を受け、油絵を描き始める。
松木満史、古藤正雄、鷹山宇一と4人で洋画の会「青光画社」を結成。

大正11年(1922)
19歳

青光画社第1回展開催。以後、昭和4年の第13回展まで開催される。

大正13年(1924)
21歳

志を立て上京。初めて帝展に《合浦( がっぽ) 池畔》を出品するが落選。

大正14年(1925)
22歳

10月26日、父幸吉死去。享年55歳

大正15年(1926)
23歳

第5回国画創作協会展に出品された川上澄生の版画《初夏の風》を見て心を動かされる。

昭和2年(1927)
24歳

4年連続帝展落選。この頃から油絵の在り方に疑問をもつようになる。

昭和3年(1928)
25歳

第9回帝展に油絵《雑園》で初入選し5年ぶりに帰郷、両親の墓前に報告する。

1929年〜1942年

昭和5年(1930)
27歳

第7回白日会展で白日賞を受賞。
第5回国画会展に《貴女行路》など版画4点を出品し初入選。
青森市の善知鳥神社にて赤城チヤと結婚。生活苦のためチヤを青森に残したまま単身東京に戻る。

昭和6年(1931)
28歳

初の版画集『星座の花嫁』刊行。
長女けよう生まれる。
第12回帝展に油絵《荘園》が3年ぶりに入選。

昭和7年(1932)
29歳

第9回白日会展でF氏賞を受賞、会友に推挙される。
日本版画協会会員となる。
第7回国画会展に版画4点を出品し《亀田・長谷川邸の裏庭》で国画奨学賞を受賞。同作と他2点がボストン美術館、もう1点がパリのリュクサンブール美術館に買い上げられる。版画家として立つ決意を固める。

昭和8年(1933)
30歳

長男巴里爾生まれる。

昭和9年(1934)
31歳

中野区沼袋南180番地の借家に移り、妻チヤと2人の子を迎える。この家を「雑華堂」と名付ける。

昭和10年(1935)
32歳

第10回国画会展に版画《萬朶譜》を出品、会友に推挙される。
次女ちよゑ生まれる。

昭和11年(1936)
33歳

第11回国画会展に版画《瓔珞譜(ようらくふ)大和し美し版画巻》を出品し、日本民藝館の蔵品として買い上げられる。これを契機に柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らの知遇を受ける。

昭和13年(1938)
35歳

第2回新文展に《勝鬘譜(しょうまんふ)・善知鳥(うとう)版画曼荼羅》を出品し、版画では官展初の特選となる。
日本民藝館第12回特別展観に版画《観音経曼荼羅》を出品、この作品から本格的に裏彩色を始める。

昭和14年(1939)
36歳

棟方志功版画個人展で版画《二菩薩釈迦十大弟子》を発表。

昭和15年(1940)
37歳

第15回国画会展に前年制作の《呵呍譜・二菩薩釈迦十大弟子版画屏風》を出品。翌年佐分(さぶり)賞を受賞。

昭和16年(1941)
38歳

次男令明生まれる。

昭和17年(1942)
39歳

初の随筆集『板散華』後記において、自らの版画を「板画」とよぶことを宣言。
唯一の油絵画集『棟方志功画集』刊行。

1943年〜1957年

昭和20年(1945)
42歳

富山県西砺波郡福光町(現・南砺市)に疎開。
東京大空襲で代々木山谷の住居を焼失し、板木のほとんどを失う。

昭和21年(1946)
43歳

第2回日展に前年制作した《鐘溪頌(しょうけいしょう)・公案「鯉雨」板画経》を出品し、岡田賞を受賞。
福光町内に住居を建て移り住む。谷崎潤一郎に「愛染苑」と命名してもらう。

昭和23年(1948)
45歳

《二菩薩釈迦十大弟子》のうち板木を焼失した「文殊菩薩」と「普賢菩薩」を改刻する。

昭和26年(1951)
48歳

疎開先の富山県福光町から東京都杉並区荻窪に転居。

昭和27年(1952)
49歳

スイス・ルガノで開催された第2回国際版画展に《女人観世音板画巻》を出品し、銅版画家・駒井哲郎とともに日本人として初の優秀賞を受賞。
日本版画協会を脱会し、下沢木鉢郎らと日本板画院を創立する。また、日本芸業院を組織する。
ニューヨークのウィラード・ギャラリーで初の海外個展を開催。

昭和30年(1955)
52歳

第3回サンパウロ・ビエンナーレに《二菩薩釈迦十大弟子》《湧然する女者達々》などを出品し、版画部門最高賞を受賞。

昭和31年(1956)
53歳

第6回日本板画院展に《歌々板画柵》から2点を出品し、読売金賞を受賞。
第28回ヴェネツィア・ビエンナ—レに《二菩薩釈迦十大弟子》《柳緑花紅頌》などを出品し、国際版画大賞を受賞。

昭和32年(1957)
54歳

鎌倉市津(鎌倉山)にアトリエ「雑華山房」を建てる。

1958年〜1967年

昭和33年(1958)
55歳

外務省・国立近代美術館・読売新聞主催のヨーロッパ巡回日本現代絵画展に《湧然の柵》などを出品。(国内展示後、ローマ、ドイツ、フランス、ユーゴスラビア、エジプト、イランなど6か国11都市を巡回)

昭和34年(1959)
56歳

ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招待で初渡米。
ニューヨーク、ボストン、クリーブランド、シカゴ、シアトル、サンフランシスコ各地の大学で板画の講義を行い、ニューヨーク、ボストンで個展を開催。
ニューヨークに棟方ギャラリーが開設される。
夏、ヨーロッパへ約1か月間旅行しフランス、オランダ、スイス、イタリア、スペインの美術館、寺院を巡る。この時ゴッホの墓を訪れる。

昭和35年(1960)
57歳

クリーブランド美術館で棟方志功展が開催される。(その後、シカゴ、シアトル、ロサンゼルスなどを巡回)
青森県褒賞を受賞。
眼疾がすすみ、左眼をほとんど失明。

昭和36年(1961)
58歳

心の師と仰いだ柳宗悦逝去。享年72歳
京都市嵯峨の法輪寺から法橋位を叙位される。

昭和37年(1962)
59歳

富山県真言密宗大本山日石寺より法眼位を叙位される。京都市嵯峨の法輪寺からも法眼位を再叙位される。

昭和38年(1963)
60歳

藍綬褒章を受章。
倉敷市の大原美術館に棟方志功板画館が開館。

昭和40年(1965)
62歳

日本の木版画に尽くした功績により1964年度朝日文化賞を受賞。
セントルイスのワシントン大学及びジャパン・ソサエティの招待で二度目の渡米。
ワシントン大学で週3回3時間「日本の木版画」について特別講義をする。
イタリア・フローレンス学士院から名誉会員に推挙される。
アメリカ・ダートマス大学から名誉文学博士号を贈られる。
東京国立近代美術館に版画を寄贈したことにより紺綬褒章を受章。

昭和42年(1967)
64歳

日本板画院の名誉会長となる。
個展開催のため3度目の渡米。
クリーブランド市のメイカンパニー主催による棟方志功板画屏風形体ワンマンショーを開催。(その後、ワシントンのスミソニアン美術館でも開催)

1968年〜1975年

昭和43年(1968)
65歳

ニューヨークを出発し、帰国の途につく。途中ハワイ大学で板画について講義をする。
青森市制施行70周年記念式に際し、功労者として表彰される。

昭和44年(1969)
66歳

青森市名誉市民(第1号)の称号を贈られる。

昭和45年(1970)
67歳

第11回毎日芸術大賞を受賞。
文化勲章を授与される。また、文化功労者に顕彰される。
青森県に棟方志功記念館建設の構想が持ち上がる。

昭和46年(1971)
68歳

陸奥新報社創刊25周年を祝して描いた「志功ねぷた」が弘前ねぷたまつりで運行される。
第1回佐藤尚武郷土大賞(東奥日報社制定)を受賞。

昭和47年(1972)
69歳

詩人の草野心平とともにインドを旅行する。

昭和48年(1973)
70歳

鎌倉市に財団法人棟方板画館を設立。

昭和49年(1974)
71歳

日本放送協会から第25回放送文化賞を受賞。
7月、「志功」を「志昂」と改名する。
青森へ帰郷し、三内霊園にゴッホの墓の形を模した墓をつくり、自身の墓碑銘を書く。これが最後の帰郷となる。
棟方志功記念館(青森市)建設着工。
71歳の誕生日を記念して棟方板画館(鎌倉市)が開館。
個展と講演のため4度目の渡米。
旅行中に健康を害し、サンフランシスコ、ホノルルで休養しながら帰国。
12月、「志昂」を再び「志功」に戻す。

昭和50年(1975)
72歳

日展常任理事となる。
9月13日、肝臓癌のため自宅で死去。同日付で従三位を追贈される。
戒名は華厳院慈航眞*かい志功居士
青森市三内にある三内霊園に納骨され、青森市民会館において市民葬が行われる。
11月17日、青森市に棟方志功記念館が開館。
*かいの字は、上が毎、下が水。